終章 おわりに



〔1〕中野忠晴という人物の生涯
 中野は戦前と戦後の活躍ぶりとその功績に比べると、現代人による知名度が不当に低い歌手の1人である。その理由は、1つには、中野が戦前築 き上げてきたジャズ・ソングやジャズ・コーラスが太平洋戦争によって消滅させられてしまい、第4章で見てきたように、戦後のジャズ・ブームや コーラス・ブームの際にも全く顧みられることがなかったという、不運な側面がある。しかし、その最大の理由は、戦後簡単に歌手業を止めてし まったことにある。
 戦前にかなり活躍した流行歌手でも、1960年頃までに亡くなってしまったり芸能界を引退してしまったりした徳山l、上原敏、楠木繁夫、松 平晃、佐藤千夜子らは、当時の活躍に比べて不当に現代人による知名度が低い。これは、1960年代後半に広がる懐メロブームに乗ることが出来 なかったからである。戦前派の歌手は1950年代後半以降、ほとんどの人が流行歌界の第一線から退いてしまった。しかし、だからといって歌手 を引退する人が多かったわけではなく、大半の歌手は、ヒットしないながらも新曲を出し続けたり、地方巡業に精を出したりして細々と生活してい た。しかし、そのうちに再び戦前派の歌手に日の目が当たる時代がやってきた。それが1960年代に広がった懐メロブームである。特にこの懐メ ロブームを引っ張っていったのが、1968年から1974年までテレビで放送された、東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組、「なつかし の歌声」(50)である。この番組は、戦前や 昭和20年代に活躍した歌手に出演してもらい、懐かしい歌を歌ってもらうというものであった。

  「なつかしの歌声」は、やがて東京12チャンネルの看板となり、大晦日の「年忘れなつかしの歌 声」、終戦記念日に放映する「夏祭りなつかしの歌声」が特に目玉となるにいたった。
まさに12チャンネルの番組が懐メロブームに火をつけたといっていい。この恩恵をうけたのが半ば引退同然だったオールド歌手達だった。テレビ 番組の出演、地方公演の依頼が相次ぎ、出演料は一〇倍にはねあがったという。
 「12チャンネルであの番組を企画した三枝孝栄プロデューサーの方へは、足を向けて寝られませんね」と、復活したオールド歌手が しみじみいうほどだった。また、この番組の司会コロムビア・トップ・ライトが「あの方はもう亡くなっていますかねえ」といったのに対し、 「おーまだ生きてますよ」と名乗り出た小野巡(めぐる)のような例もある。「九段の母」の熱唱で一世を風靡した塩まさるは、これを機会に復活 を果たし、八〇歳をすぎた今日でも歌い続けている。また声が出なくなって歌うことをやめていた高峰三枝子に「大丈夫だから歌ってごらんなさい よ」と藤山が説得し、三枝プロデューサーが無理にひっぱり出した結果、歌手として復活した例もあった。
 12チャンネルの成功に刺激され、NHKも昭和四四年から「思い出のメロディー」をスタートさせた。藤山はNHKの準専属とあっ て出演したが、「なつかしの歌声」で復活したオールド歌手の中には、12チャンネルに義理を感じ、NHKへの出演を遠慮する人もいた。(池 井, 1997, p.205)



 この番組により、戦前派の歌手が再び脚光を浴び、再評価されたわけである。しかし、中野はこの懐メロブームに乗ることはなかった。歌手をや めた後の中野は、たとえお酒の席などで歌を歌ってくれと頼まれても、絶対に人前で歌うことはなかったとのことである。たとえ東京12ちゃんね るから出演依頼が来ていたとしても、中野が出演を承諾することはなかったであろう。
 中野の同僚で、キングレコードには林伊佐緒という歌手がいた。林は中野より3つ年下で、戦前から歌手として活躍するかたわら作曲もこなし、 歌手と作曲家の二足のわらじをはいていた。1950年代後半以降は、林も歌手としての新曲はだんだんと吹き込まなくなっていったが、それでも 歌手をやめることはなく、後の懐メロブームに乗って知名度の回復を見事に果たした人物の1人である。活動内容が作曲家業主体に移行してもよい から、中野も林のように歌手をやめてさえいなければ、現在の知名度もこれほど低くなっていなかっただろうと思うと、残念である。
 終戦後、ジャズ・ソングを歌える歌手やジャズメンたちは進駐軍の所へ行って歌を歌ったりジャズを演奏したりして生活していたが、 中野はこれに参加することはなかった。また、1952年に流行歌界へ復帰した時も、歌手として出したレコードがヒットしなかったら、あっさり と歌手業を止めてしまった。これらの行動を見ると、中野は歌手という職業に対する執着心はあまりなかったようにも思える。戦時中に中野を特別 に除隊した部隊長は、中野だけでも生き残って、ファンのために歌を歌い続けてほしいと願っていたはずであるが、それをあっさりと裏切った中野 にはあっけなさを感じる。中野忠彦氏は、自分の父親のことを、ジャズ・ソングと歌謡曲のどちらにも徹することが出来ずに、中途半端な位置で一 生を終えてしまったと評しているが、中野は歌手業に徹することもしなかった。「すぐ忘れられる流行歌ではなく、一日でも長く人々に覚えてもら える、そんな曲を作りたい」(おもいっきりテレビ, 1998)との思いで作曲家業に専念した中野は、逆に結果的に戦前の歌手時代のことを人々から忘れ去られてしまったと言える。
 しかし、戦前の日本で明るく朗らかなジャズ・ソングを歌い、日本初の本格的なジャズ・コーラス・グループを指導したという中野の 功績は、決して色あせることはない。本稿を通じて、中野忠晴という今日では忘れられがちな一人物、そして戦前日本のジャズ・コーラスに関心を 持たれる方が出来れば、幸いである。

〔2〕今後の課題
 本稿は日本史学研究室の卒業論文として提出されるものである。不勉強ながら、出来るだけ日本のジャズ・ソング史、とりわけジャズ・コーラス 史の中で中野を評価してきたつもりであるが、日本の流行歌史の中で、もしくは大衆文化史という広い枠の中で中野を評価できた自信はない。ま た、当時の政治や経済、国際情勢などの社会状況をからめて中野を考察することも出来なかった。これらは今後の課題である。
 ジャズ・ソングを歌った歌手である中野が、軍歌や戦時歌謡を抵抗なくレコードに吹き込んでいることに関しては、特に深く検討すべき点でもな いと思い、本稿では扱わなかった。なぜなら、当時のレコード歌手は例外なく軍歌や戦時歌謡をレコードに吹き込んでおり、レコードに軍歌を吹き 込まなかったと言われる淡谷のり子にしても、舞台では軍歌を歌っていたからである。また、中野本人の肉筆が残されていない以上、中野が軍歌や 戦時歌謡に関してどのような感情を抱いていたかも分からないからだ。戦争が終わってジャズ・ソングを自由に歌えるようになったにもかかわら ず、歌手業に戻らなかったという行為からは、戦争によってどのような影響を中野が受けたのかは想像できなかった。
 戦前から中野のことを直接知っている人々からもお話を伺えればと思ったが、リズム・ボーイズやリズム・シスターズのメンバーは既に一人も世 になく、戦前からずっと中野のマネージャーをしていたという中野の弟も2002年に亡くなってしまっていた。また、作曲家の高木東六氏や水の 江滝子さん、川畑文子さん、中野と仲の良かったという二葉あき子さんは現在もご健在であったが、どの方もご高齢などの理由でお話を伺うことが 出来なかったのが残念であった。


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