コロムビア・アイキー・クワルテット&コロムビア・ミッキー・フォアーに関して
コロムビア・ミッキー・フォアーのレコードを運良く入手したので、レビューを書きます。
卒論の第2章でも書いているのですが、コロムビア・アイキー・クワルテット=コロムビア・ミッキー・フォアーはコロムビア・リズム・ボーイズの前身と考えられます。”考えられる”とあえて曖昧に書いた理由は、決定的な証拠があるわけではないからです。コロムビアから1976年に出た『オリジナル盤による日本のジャズ・ソング 戦前篇』LPの解説書の瀬川昌久氏の記事には以下のようにあります。
この四人のリズム・ボーイズの養成は、中野忠晴が熱心に推進したものだが、その前身は、昭和八年初めにデビューしたコロムビア・アイキー・クワルテットと称する四人組のコーラス・グループだった。その時は、「おおスザンナ」とか「猫そう動」「ディキシー」その他アメリカ民謡などを、主として取り上げたが、これを徐々にジャズ・コーラスに発展せしめた。(瀬川, 1976, p.19)
一方、当時のコロムビア邦楽レコード新譜の記載は以下のようになっています。
コロムビア・アイキー・クワルテットとコロムビア・ミッキー・フォアーが出したレコードは上の4枚で全てです。それによると、「おおスザンナ」と「猫そう動」を歌ったのは確かにコロムビア・アイキー・クワルテットですが、「ディキシー」を歌っているのはコロムビア・ミッキー・フォアーなので、(瀬川, 1976)の記述はやや不正確であると言わねばなりません。”コロムビア・アイキー・コルテット”というグループと”コロムビア・ミッキー・フォアー”というグループは同一であると結論づけるのが自然な推測だと思います。
ちなみに、当時の新譜にコロムビア・アイキー・クワルテットの写真が載っていますので、そちらもアップしておきます。
初期のリズム・ボーイズの写真(1934年7月新譜「海の人気者/山の唄」の歌詞カードより)、ポリドール・リズム・ボーイズの写真と比較してみましょう。
コロムビア・ミッキー・フォアーに関しての説明は、新譜には以下のことしか書かれていません。
さて、実際に「牧場/山の神」を聞いてみました。私には音楽の素養が全くないのでよく分からないのですが、四重唱としての技術力は既に相当なものであると感じましたが、”ジャズ”にはなっていないと感じました。それは当然のことで、この段階ではまだ”ジャズ・コーラス”として売り込んではいないので、ジャズの編曲がなされていないからです。中野忠晴と組んでコロムビア・リズム・ボーイズとしての最初のレコードを”ジャズ・コーラス”として発売したのが1934年1月の「山の人気者/今夜逢ってね」であり、ジャズ・コ―ラス・グループとなったのはその時以降です。
中野はジャズの方面に進出して新機軸を出そうと考え、翌年武蔵野音楽学校卒業生で組織していた四人組コーラスをコロムビアに迎え、コロムビア・リズム・ボーイズを結成、それとのコンビで、ジャズ歌手のみちを歩み始めた。(中略)オリジナルメンバーは、第一テナー木下伊左男、第二テナー松本欣三郎、バリトン村田清、バス早川一郎で、武蔵野音楽学校在学中に、アメリカの黒人4人兄弟、ミルス・ブラザースの素晴らしいコーラスをレコードできいてすっかり感服して結成したものだった。(瀬川, 1982a, p.17)
十三日夜、産経ホールで聞いたミルス・ブラザーズの公演は、僕の二十年来の夢を実現させてくれた。昭和十二、三年ごろだったと思う。当時歌謡曲歌手だった僕はなにか新しいスタイルの歌謡曲を生みだそうと努力していた。そんなとき新橋の喫茶店でミルスのレコードを聞いて"これだ"と感じた。早速友人たちを集めてコーラスの練習を始め、中野リズム・ボーイズが生まれた(中野, 1960, p.2)
ポリドールのリズム・ボーイズは昭和十年コロムビアから移籍して結成された。メンバーはテナー木下伊左男(長野県出身)、テナー松本欣三郎(岡山県出身)、バリトン村田清(東京出身)、バス早川一郎(名古屋出身)の四人何れも武蔵野音楽学校の同窓で、昭和五年にグループを結成以来勉強を重ねて、日本のコーラスとしては珍しい位低音のきいたハーモニーが揃っているし、リズミックなセンスに富んでいた。(瀬川, 1984)
中野忠晴が木下・松本・村田・早川の4人と出会ったのはいつなのか、上の3つの記述からは確定できません。可能性としては、
1.中野忠晴が木下ら4人をコロムビアに紹介し、1年ほどアイキー・クワルテット、ミッキー・フォアーとして単独で活動させた後、リズム・ボーイズとして一緒に活動するようになった。
2.アイキー・クワルテット、ミッキー・フォアーとして元々コロムビアで活動していた4人を1933年になってから中野が知り、リズム・ボーイズとして一緒に活動するようになった。
中野も4人と同じ武蔵野音楽学校出身ということ、1930年にグループを結成との記述があることより、1.の可能性が高いような気がします。
次に、以下の記述が興味深いです。
中野 コロムビヤに入社する時「山の人氣者」を唄つた。山田耕筰さんがあれを聴いて是は面白い曲だ、唄ひ方が變つて居ると云ふので專屬になつた。流行歌も大分行詰つたから何か變つたものをやれと云ふのでテストをされ、「山の人氣者」と云ふのをやつて、コーラスを一寸入れた。それが當たつた。テストの時もそれだが、ヂャズに轉向した時もそれだ。實際因縁の深いマスコツトだよ、オーゴンレコード【=トンボ印のニッポンレコード】にも吹込んだ(笑聲)是くらゐの小さい奴でデパートにある。
奥野 堂々と中野と出て来る。「山の人氣者」で當たつたやうなものだね。
中野 僕はあれが一番縁が深い【。】オーゴンでも吹込むし、コロムビヤでも吹込む。前に聽いて悪かつた所を直して(笑聲)(『音楽新聞』第216号, 1938, p.5, 文中墨付き括弧は筆者、原文には漢字にルビが振ってある)
コロムビアに入社する時に既に「山の人気者」を歌い、コーラスを入れたとあります。また、「オーゴンでも吹込む」とあり、この時にもコーラスを入れた可能性があります。オーゴンの音源は未所有ですが、こちらは中野が音楽学校時代のアルバイト吹込みの可能性が高いです。この頃から木下らと手を組んでいたのかもしれません。
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