第4章 コロムビア・ナカノ・リズム・ ボーイズから始まった日本のジャズ・コーラス・ブーム
〔1〕戦前のジャズ・コーラス・ブーム
アメリカのミルス・ブラザースに遅れること約5年で、日本にもジャズ・コーラス・ブームが花開いたわけであるが、コロムビア・ナカノ・リズ
ム・ボーイズ、リズム・シスターズの成功をきっかけとして、次々とコーラス・グループが戦前に誕生した。レコード会社では第2章で挙げたとお
り、1935年前半にコロムビアのリズム・ボーイズをポリドールが4人とも引き抜いてしまったという事件があった。この4人はポリドール・リ
ズム・ボーイズとして、この後ジャズ・ソングを歌ったり、歌謡曲のバックコーラスを務めていくことになる。ビクターでも1936年秋に、男声
ジャズ四重唱団として日本ビクター・リズム・ジョーカースが結成された。メンバーはテナーが橋田胖と友野俊一、バリトンが原有明、バスが大智
喜久一の4人であった。橋田は元ラッカンサン・ジャズ・バンドにも関係のあるクラリネット吹きで法政大学出身、他のメンバーも楽器を奏した
り、編曲を手がけたりする音楽的素養の深い人たちが集まっていた。そして、単なるオーケストラのバックで歌うだけでなく、ギター1本とか、リ
ズムだけの伴奏で、コーラスそのものをリズミックにアレンジすることを心がけていた。1938年までの3年間に十数曲、アメリカのスタンダー
ド・ソングや「木曽節」「草津節」をはじめ、「豊年万作」「猫じゃ猫じゃ」といった日本古謡をコミカルにジャズ化したコーラスを吹き込んでい
る。外国曲だけでなく日本古謡を積極的に手がけているあたりは、服部良一のコロムビアでのジャズ・コーラスの成功の影響を大きく受けているこ
とが分かる。他にも、ニットーやタイヘイなどのマイナーレコード会社からもジャズ・コーラスを利用したレコードが発売されている。
スリー・シスターズはドイツ系混血の南雅子(フリーダ南)を長姉とし、ラウラ、マリーネの三姉妹のコーラス・グループで、1938年ごろか
ら、初めレイ・エ・シスターズの名でハワイアン・バンドを組織して活動していた。後に吉本興業の専属となって全国の吉本系ステージ・ショーに
出演してジャズ・ソングやハワイアン曲をコーラスで歌った。当時コロムビアにレコードも数曲吹き込んでいる。
1930年代後半には、ジャズ・コーラス・ブームの発展に伴い、漫才グループも登場した。最も有名なのはあきれたぼういずである。
1937、1938年ごろから中野とリズム・ボーイズのコンビはレコード吹き込みだけでなく実演の舞台に出て人気を呼ぶようになったのである
が、それに刺激されてあきれたぼういずも人気を呼んだ。あきれたぼういずは1937年に吉本興業からデビューしたグループで、川田義雄をリー
ダーに坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の4人が浅草の花月劇場に出演して大人気を呼んだ。あきれたぼういずは浪花節や俗曲などの日本の音楽芸能か
ら、オペラやジャズ・ソングなどの洋楽、さらにはアメリカのアニメ短編映画のヒーロー、ポパイやディズニー漫画の主人公である動物たちの声色
までを素材として漫才を繰り広げていった。
1939年〜1940年にかけてはこれら4人組の漫才グループが他にも誕生し、ステージ・ショーの中で隆盛を極めた。あきれたぼういずの他
に有名なのはミルク・ブラザースとザツオン・ブラザースである。3つのグループとも4人組だというのは、明らかにミルス・ブラザースやコロム
ビア・ナカノ・リズム・ボーイズの四重唱を意識してのものであり(30)、リズム・ボーイズの「タイガー・ラッグ」などのジャズ・コーラスを模写する
こともあった。これらグループは実演の他に、ジャズ漫才と称してレコードにも吹き込んでいる。
他に戦前のジャズ・コーラス・ブームの影響を受けたものとしては、科白の代わりに楽器演奏で漫画的笑いを誘うコミック・バンドが登場し、その
代表がハット・ボンボンズである。これは、戦後のシティ・スリッカーズやクレージー・キャッツ、ドリフターズへと伝統が引き継がれていった。
〔2〕戦後のコーラス・グループ
このように1937年から1941年までの5年間が、戦前のジャズ・コーラス・ブームの最も華やかな時期であったが、日米開戦が始まって
ジャズが敵性音楽として排除されるにしたがって、コーラス・グループも次々と解散していった。しかも、コロムビア・リズム・シスターズ(31)とあきれたぼういず、ミルク・ブラザー
ス以外のグループは戦後再興することもなかった。再興した3つのグループにしても、各人独立の仕事が多くなるなどの理由で長く続くことなく解
散してしまい、戦前からの流れを持つコーラス・グループはあまりパッとしなかった。
戦後誕生したコーラス・グループの草分けはリリオ・リズム・エアーズである。結成は1945年で、リーダーの伊藤基道がまだ慶応大学在学中
に学生ばかりで始めたハワイアンバンドがそもそもの最初である。その後コーラスに変わり、男声五重唱団としてハワイアンやジャズを中心とした
コーラスとして20年以上にわたり活躍した。その後、同じ慶応大学出身のダーク・ダックスは1952年に結成され、1955年にプロになっ
た。ダーク・ダックスは最初ジャズ・コーラス・グループとして結成され、旗照夫などのソロ歌手のバック・コーラスとしてジャズ・ソングを歌っ
ていたが、後にソロで世界各国の民謡や日本の唱歌・童謡など、ジャズにこだわらずに広くレパートリーをとって歌い、大人気を博した。ダーク・
ダックスは1993年に最長寿コーラス・グループとしてギネスブックに認定され、紫綬褒章を受章しており、現在でも療養中の佐々木行を除く3
人で活動している。他にも早稲田大学出身で1959年結成の四重唱ボニー・ジャックス、1955年結成の四重唱デューク・エイセス、1952
年結成でムード・コーラスとして歌謡曲のコーラス化を開拓した6人グループのマヒナ・スターズ、中南米のラテン専門の三重唱トリオ・ロス・チ
カロスなど、1950年代後半から1960年代前半(昭和30年代)にかけて、日本中でコーラス・グループが次々と生まれ、大流行した。
女性でもコーラス・グループは流行した。三重唱のスリー・グレイセス、スリー・キャッツ、スリー・バブルス、ダイヤモンド・シスターズ、ク
リスタル・シスターズなどの他、双子の姉妹で二重唱を組んだザ・ピーナッツ、こまどり姉妹もヒットした。
〔3〕戦後のジャズ・コーラス・ブーム
戦前のジャズ・コーラスの代表格であったコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズとリズム・シスターズの存在は、このような戦後のコーラス・
グループの誕生とコーラス・ブームに影響を与えたのであろうか。この頃の雑誌記事などを参考に考えてみる。
戦前のコーラス・グループは材木屋の旦那さんとか、本屋の店員さんなどが仕事の余暇に集まって楽しみに歌ったもので、こ れを生業にしていた人はいない。戦後も学生が、アルバイトに歌うような場合が多かった。プロのコーラス・グループが日本に生まれたのは四,五 年前からで、現在第一線で歌っているグループは二十近くある。(毎日グラフ, 1959, p.20)
コーラスといったらご詠歌だけ、ジャズ・コーラスなんて見向きもされなかったこの国にも、どうやら"コーラス時代"が やって来たようだ。(中略)つい数年前までは、日本では絶対にジャズ・コーラスなど育たないと思われていた。(娯楽よみうり, 1957, pp.16-17)
アメリカ帰りの沢村みつ子、二世歌手のジェームス・繁田などではさして盛り上ってこない、客席が、ジャズ・コーラス・グ ループの"ダーク・ダックス"の登場でふしぎな程活気づいてくるのだ。(中略)日本では育ちにくいといわれたジャズ・コーラスが、どうして大 衆に理解されるようになったのか。(旬刊ラジオ東京, 1956, p.21)
安倍 ダークの存在の偉大さは、日本ではじめて商売になったジャズ・コーラスということですね。ジャズという言葉は、こ れは厳格な意味ではちょっと問題があるけれどもね。
岡野 彼等はバーバーショップ・スタイルというのに一番最初あこがれてやりはじめたということなんだね。その前にリリオ<リズムエアー ズ>があるわけですよ。
伊奈 デユーク<エーセス>も長いよ。
安倍 デユークの前にブライト・リズム・ボーイズというのがありますよ。しかし、ちゃんと成果が定まって今日残っているという意味で、ぼく は、ダークをジャズ・コーラスの先駆的存在というふうに見たいのだな。(ダーク・ダックス, 1972, p.200)
このように、1960年頃の雑誌記事などを見ると、リリオ・リズム・エアーズやダーク・ダックスを日本のコーラス・グループの草
分けと認識し、日本のコーラス・グループは戦後から始まったとする趣旨のものが非常に多いことが分かった。要するに、1950年代から始まる
このものの見方は、日本での戦前のコーラス・グループの存在を認識していなかったり、認識していたとしても軽視していたといえる。そして、日
本のコーラス・グループは戦後に生まれたとするこの見方は21世紀の現在まで続いており、そのためにコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズを
始めとする戦前のジャズ・コーラス・グループの存在を知らない現代人が多いということが言える。
それでは、なぜ昭和30年代にこのような見方が広まってしまったのであろうか。戦前のコーラス・グループが当時一部の人々にしか認知されて
いなかったからだという理由ではない。コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズの「山の人気者」や「山寺の和尚さん」のレコードは相当な数の売
れ行きを示しているし、中野とリズム・ボーイズのコンビは映画やステージ・ショーでも有名であった。また、あきれたぼういずも当時はかなり有
名であった。
戦後に、戦前の国産コーラス・グループの存在が忘れ去られてしまった1つ目の理由として、戦後のコーラス・グループのメンバーがリアル・タ
イムで戦前のコーラス・グループのことを知らなかったという点を挙げることが出来る。彼らの多くは1930年代に生まれていて、ちょうどコロ
ムビア・リズム・ボーイズやあきれたぼういずが活躍していた頃は子どもであった。だから「山の人気者」や「山寺の和尚さん」をレコードで聞い
ていてもおかしくはないのだが、そういったエピソードは出てこない。ダーク・ダックスの場合は、慶応大学の慶応ワグネル・ソサイエティーとい
う男声合唱部から生まれたグループであるように、メンバーの4人とも子どもの頃から合唱には親しんできていたが、ジャズに親しみ出したのは戦
後のGHQの時代からという。ジャズ・コーラス・グループとしてのダーク・ダックスが模範にしたジャズ・コーラス・グループは、戦前の国産グ
ループではなくて、戦前に引き続いて戦後も活躍した本場アメリカの黒人四重唱団、ゴールデンゲイト・クヮルテットやミルス・ブラザースであっ
た。(32)また、デューク・エイセスが模範
としたグループも、戦前から長く活躍するアメリカのグループであった。(33)
戦前のコーラス・グループの存在が戦後忘れ去られてしまった2つ目の理由は、戦前のコーラス・グループと戦後誕生したコーラス・グループとの
間の質的な違いである。戦前のコーラス・グループはメンバーの入れ替わりが激しく、1つのグループが存続する年数も短かった。コロムビア・ナ
カノ・リズム・ボーイズは1936年が秋山、原田、手塚、山上の4人であったが、1941年頃には秋山、百瀬大了(=後の高倉敏)、笈川潔、
萩原英一となっており、1936年からのメンバーは秋山しか残っていない。リズム・シスターズは女性故にメンバーの入れ替わりがリズム・ボー
イズより激しく(34)、1936年のメン
バーが山野、榊、柘植、鈴木だったのに対して、1939年10月の時点では、深山藍子、真木綾子、栗山なお子、木村鑑子の4人となっている。
リズム・ボーイズ、リズム・シスターズのメンバーの決定に関しては、戦後のグループのようにコーラスの好きな仲間同士で集まって結成されたわ
けではなく、中野や服部が会社の商業的な利益も考慮して新人を発掘していたのであろうと思われる。また、リズム・ボーイズとリズム・シスター
ズのメンバーからは、高倉敏、志村道夫、奥山彩子など、後にソロ歌手となった人物も輩出している。このことから、リズム・ボーイズやリズム・
シスターズは、ソロ歌手育成の場という役目も担っていたと捉えることができる。あきれたぼういずなどの漫才グループも同様にメンバーの入れ替
わりが多かった。
これに対して戦後のコーラス・グループは存続する年数が長く、メンバーも固定であることが多い。戦後の草分け的存在であるリリオ・リズム・
エアーズは20年以上存続したし、ダーク・ダックスやボニー・ジャックス、デューク・エイセス、スリー・グレイセスに至っては今でも現役であ
るし、メンバーの入れ替えも極めて少ない。戦後のグループは、コーラスの好きな仲間同士が純粋に集まって結成された場合が多いので、メンバー
同士のきずなも固いのである。(35)戦前の
コーラス・グループは、メンバーがコロコロ入れ替わり、コーラスをずっと続けていくことに情熱を燃やしていた人物がメンバーを構成していたわ
けではなかったので、大衆にコーラスの素晴らしさが伝わりにくかったのであろう。
3つ目の理由は、戦前の日本の一般大衆自らが歌を歌ったり合唱したりする機会が少なかったということが挙げられる。戦前の日本に
もアマチュア合唱団は存在していたが、大多数の大衆にとって歌はもっぱらレコードやラジオなどで聞くだけのものでしかなかった。それが変わっ
たのは戦中のことである。国民歌謡が1937年からNHKラジオで放送され、加えて戦意高揚の名で軍歌が家庭に、職場に、老若男女を問わず歌
うように強制され、自ら歌う習慣が国民一人一人の頭にしみこんでいった。そして戦後、全日本合唱連盟が1948年に発足したり、NHK全国唱
歌ラジオコンクールが小中高校生の参加の元に行われたりして、大衆の間に合唱熱が高まっていった。また、労働運動の一環として、1948年2
月10日ソプラノ歌手の関鑑子の指導のもとに日本青年共産同盟中央合唱団が創立したことを出発点として始まったうたごえ運動と、職場で働く人
たちの音楽交歓会として1956年に発足した日本産業音楽祭の存在も、1950年代の日本全国に合唱ブームを巻き起こす要因となった。この大
衆の合唱熱と、1952、1953年に頂点を迎えたジャズ・ブーム(36)とがあいまって、合唱ブームの中でも特にジャズ・コーラス・ブームが起こり、
その結果、ダーク・ダックスやデューク・エイセス、スリー・グレイセスなどのプロのジャズ・コーラス・グループが次々に登場したのだと言え
る。この1950年代のブームは、戦前のジャズ・コーラス・ブームとは桁違いに規模が大きかったものであるし、この頃のコーラス・グループは
素人の大衆自身が合唱を行う上での良き手本となる存在であったから、より身近な存在であったわけである。
もう1つ最後に重要な理由であるが、戦前のジャズ・コーラス・ブームは期間が短すぎたという点もある。戦争の激化によって
1937年に花開いたジャズ・コーラス・ブームがしぼんでしまい、戦後も大半のグループが再興しなかったことは、戦後まで大衆の間にインパク
トを残せなかった大きな要因となった。
トップへ
第3章へ
第5章へ